徒然サブカル随筆

気の向くままにサブカルについて綴ります

イタくても進んでく

唐突だが、私はいわゆる「イタい」人間だと思う。
こんなブログにこんな記事をあげてる時点でお察しではあるが、少なくとも私は自分がイタいことを自覚している。

自覚している上で自らを晒す行為を繰り返している訳だから、おそらく私は相当なドMか、露出プレイが好きな変態かといったところなのだろう。

このブログも2ヶ月ほど更新が滞っていたのだが、こうしてまたキーボードを打ち込んで醜態を晒しているのは、ある漫画の影響が大きい。



左ききのエレン」というweb漫画を知っているだろうか。絵は決して上手くはない。むしろ下手すぎる部類に入るが、恐ろしく内容が深い。そしてアツい。
今、ジャンプ+で新たな作画の連載がスタートしているので、興味がある人は見てみるといいだろう。

その中で主人公の1人が言うセリフにこんなやりとりがある。

「俺は…何かになるんだ…」

「ハッ 何かって何だよ‼︎?」

「何かだよ‼︎俺は何かになりたいんだよ‼︎」

「だから何なんだよそれは‼︎」

「何か…!何かにならなきゃ…退屈で…退屈で生きていけねぇよ…」




久しぶりに、ぐさりと、刺さった。
そうだ。俺も、「何か」になりたかったんだ。



今の現状に特に不満はない。買いたいものも買えてるし、好きなこともできている。友人も少なからずいる。
しかし、何か足りない。どこか乾いている自分がいることも確かだ。


臆病な自尊心と尊大な羞恥心に塗れている虎のような今の自分では、「何か」になる土俵にすら上がれていないのではないだろうか。
この考えは以前から漠然と持っている考えだったのだが、今回この漫画を読んで再び燻っていた心に火がついた。


【天才になれなかった全ての人へーー】
というメッセージから始まるこの下手くそな漫画に、私はすっかり魅了されてしまった。


私も、天才になれなかった。
自分は何か特別なものになれるはずだという漠然とした思いだけが募っていくだけの青春時代だった。
結局、評価されることに怯え、影で指を刺されることに怯え、自分を曝け出して何かを表現するということをしてこなかった。

自分に才能がないと認めることが、途方もなく恐ろしかった。

だけど、あえてやろう。傷ついてもいいから、あがいてやろう。
イタいのは百も承知。才能がないのもわかってる。
ただこの渇きを、この退屈を、少しでも紛らわす可能性があるのならば、私はそこに賭けてみたいと思ったのだ。


これを読んで「イタいわこの人」と思うならばそれで構わない。そのつもりで書いているし、そう思えるということは現状上手くやれている証拠だろう。

しかし、どこかこの文章を読んで引っかかる人がいると私は信じている。自分の中にも退屈や渇きを抱え込んでる人がいることを願ってやまない。

そんな人は、とりあえずやってみようぜ。
イタくても、下手くそでも構わない。
動き出さないと、何かにすらなれないんだから。

モラトリアム

10年越しの蛍光灯の下
多角の木棒、黒ずむ長方
向かう気力も枯れ果てた僕は
壁の時計に焦りばかり感じる

奴等は全て高尚な虚像
同情の台詞も皮肉な幻聴
理性上回る劣等感情を
躍起に保つだけの日常

喚き散らして、寂しくなって
愛を求めて、また喚いて
結局僕らはそういうモンだろう
バツ悪そうに笑うだけだろう


努力の周期は徒労で終了
圧し折る木棒、千切れる長方
利己心ばかり沸き上がる僕は
ただの善意が僕の胸ばかりを刺す

周囲の視線は遙か上方
それを見上げるは羨望の表情
比較対象は誇張だらけの
独りよがりの浅慮な実像

比べて泣いて、言葉も散って
自我を誇示して、人を見下して
結局僕らはそういうモンだろう
気づいた時だけ嘆くだけだろう

「またやってしまった」後悔するフリ
そんな自分にただ酔っているだけ
「死んでしまいたい」出来もしないくせに
叶うはずのない妄想(ゆめ)ばかり想う

怒鳴り散らして、人に当たって
悲しくなって、誰もいなくて
誰か探して、僕を探して
知りもしないまま、ただ喚いてるだけ




その昔、私がマジで病んでた頃に書いた歌詞(メロディーもあるけどまだ誰にも聞かせてないから今のところただのポエム)でございます。

録音でき次第ちゃんと形にする予定だけども、受験で辛かった経験がある人なら痛いほど伝わってくれるんじゃないかと信じておりやす

というわけで、こっそりここに載せときます

殺意を持って生きるのだ

「殺意」と聞いて皆さんはどんな印象を持つだろうか。
十中八九、物騒なイメージを持つことだろう。
なんてったって「殺す意思」と書くのだ。マイナスなイメージをぬぐい切れないのは当然だろう。

しかし私は、常に殺意を持って生きたいと思っている。
ここでの殺意は「殺す意思」ではない「殺したい意思」だ。あくまでも願望の意味合いが強い。


むかつく上司、不条理な客、理不尽な仕事。世の中には納得のいかない出来事であふれている。
それに従順に従っていては精神が持たない。「殺してやりてぇな」というひねくれた精神が必要なのだ。

学生時代に「まじめだね」とよく言われた。それと同じく「エロそうだね」とも言われているのだが。
とにかく一生懸命先生のいうことを聞いて、ルールを守り、怒られないよう、目をつけられないよう、懸命に生きてきた。
それが「正しいこと」なのだと信じて生きてきた。

しかし、ヤンキーがまじめになると途端に周りから高評価を受けるように。
たとえばそう、明らかなクズ男なのにやけに女にモテたりするように。
そしてそう、遊び歩いていたウェイのくせして、やたら会社でいい立場に立っていたり。

まじめに生きてきた人ほど、残念ながらこの社会では損をする立場になってしまう。
「正しいこと」を必死で貫いてきた人ほど、実際の社会では「役立たず、つまらないやつ」になってしまうのだ。
(半年くらい前にツイッターで回ってきたブログにも似たようなことが書いてあった。感じているのは自分だけじゃないのだろう)


だからと言って不真面目になれなんていうつもりは毛頭ない。凝り固まった社会を変えようなんていう大言壮語も吐くつもりもない。
「殺意」だ。殺意を持つのだ。

不条理を憎め。理不尽を憎め。殺してやりたいと思うほどの怒りを常に胸に秘めていろ。
別に歯向かって戦えとは言わない。しかし、諦めて無気力になってしまった時こそが真の敗北だと私は思う。

毎日同じ仕事の繰り返しになりがちな社会人。ベンチャーならともかく、ある程度の規模の会社になるとわけのわからない慣習や今更と思うようなしきたりがあちこちに散らばっている。
それを「当たり前」だと感じてしまったとき、少なくとも私は大切な何かを失ってしまうような気がする。
私が私であるための意義が、自分という認識が、きっと希薄なものになってしまう。


これからの長い人生の中で、きっとこの文章は大変青臭い。たぶん10年後にもう一回見たら恥ずかしさで悶絶するかもしれない。
それでも、私は殺意を持ち続けたい。ひねくれた気持ちを大切にしたい。ひいては、いつかあきらめかけてしまっている自分を見つけたとき、その自分自身に殺意を抱きたい。


腹が立つ気持ちを持つことは、決して悪いことじゃない。
まじめな人ほど、腹を立てている自分に嫌気がさし、自己嫌悪に陥りやすい。
全部自分のせいにする必要はない。むかつく奴らに堂々と殺意を持て。
そうすれば少しだけ、生きるのが楽になるかもしれない。

ヘルニアおじさん

四半世紀。まだ20代半ばでまさかヘルニアになろうとは露ほども思っていなかった。
青天の霹靂とはまさにこのことだ。

三連休、大学の同期と後輩とキャンプに行く予定も、絶対安静ということで流れてしまった。
現在、まったくやることがなくて暇な私は、首にコルセットを巻きながら半ベソかいてキーボードを叩いている。

木曜日。夕方。いつも通り業務を終えた私は首筋に鈍い痛みを覚えた。
朝から腹の調子が悪く、おなかピーピーマンだったせいもあり、「朝から寝違えていた首が今になって痛み始めてきたかな」ぐらいの感覚でいた。

帰宅しても痛みは治まるどころかむしろ悪化していく。寝返りすら打てない状態が一晩中続いた。
しかし、たかが首の寝違えで会社を休むわけにも行かない。
しかも明日は指導役が休みだ。実質課長と私の二人でお客様を裁かなければならない。

私は腹をくくった。「明日は死んでも会社に行って業務をこなしてやろう」
そう決意した私の首は、すでに傾き始めていたのだが。

翌日、湿布でガチガチに首筋を固定し、私はぎこちない足取りで出社した。
明らかな挙動の不振さと表情の気持ち悪さで早速上司にバレる。
「いやぁ、寝違えたみたいで全然首回らないんですよ」
私はピエロになり切り、笑ってごまかした。しかし、副支店長、あっさり見破る。
「飲み物飲むのすらきつかったりしない?」
「キツいですね。歯磨きすら厳しかったです」
「それ、寝違えじゃないかもしれない。今日仕事終わったらすぐに病院に行きなさい。」

私の中に「頸椎」というワードと「ヘルニア」というワードが同時に浮かんできた。
いやいやいや、まだ25だし、さすがにねぇ・・・?

とりあえず夕方以降に空いている整形外科を見つけ出し、帰りに行くことにした。


その日、私は2件のお客様対応を任されていた。
私は今現在事務の勉強中であり、客対応はほとんどしていない。
指導役が休みのため、そのお客様を例外的に対応することになったのだ。
うち1件が少し立て込んでいるパターンで、私は事前に申し受ける書類一式をメモして頭に叩き込んでいた。


そういう日に限って厄介な客は現れる。予約もしていない飛び入りの客が5,6人連続で来店し、課長と私はてんやわんやとなった。2人しかいないのに回るわけもなく、かなりお待たせしてしまったお客様もいた。
しかも来店していることを言わずにただ黙って座っているだけというたタチの悪さだ。気づくわけがなかろうに。
電話でわけのわからないクレームも連発し、昼飯も食べれない状況であった(もともと昼飯も食えないぐらい首が痛んでいるのだが)


何とかすべてのお客様をさばき切り、ひと段落つく頃には定時間際。首の痛みも限界に達していた。
脂汗を書きながら曲がった首で必死に客対応していた私を見て、普段全く褒めない課長も「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!」と、首相ばりに褒めてくれたのはちょっとうれしかった。


少しだけ早引けさせてもらい、私は整形外科へと急いだ。すでに首は固まって全く動かない。
お客様からも心配されていたので、相当気持ち悪い顔をしていたのであろう。

レントゲンを見た先生が一言

「ギリ飛び出てますね・・・」

「それは神経がということですか?」

「ええ。三番と五番ですね・・・」

「三番と五番」

「ええ、MRIをとっても?」

「かまわない」

後半から全く笑えなくなり村上春樹のような返答しかできなくなっていた私であったが、人生で初めてMRIをとることになった。
20分ばかり狭い機械の中に詰め込まれ、体を輪切りにされた写真を撮影する。

「鮭とかさばかれてるとき、こんな気持ちなのかなあ」

などと訳のわからないことを考えているうちに撮影は終わった。

やはりちょっぴりだが飛び出ている。この程度なら治るらしいので、しばらくはリハビリに通わなければならないみたいだ。
日頃の運動不足、生活の乱れが主な原因らしいので、痛みが治まったら本格的に筋トレを始めようと考えている。

痛み止めと湿布、最終兵器の座薬をもらって、会計が8,000円だった。MRIがくそ高いのだ。
わたしの財布の中には7000円しか入っていない。


「あのう、ここってカードは・・・?」

「あー、つかえないんですよ」

「・・・ちょっと電話してもいいですか」

「どうぞ」



25にもなって親に電話をし、迎えと足りない分の現金を持ってきてもらうという情けない成人男性の姿がそこにはあった。


というか僕だった。

テレキャスターに気をつけろ

 私が人生で1、2を争うくらいに聞き続け、追い続けているバンド、ハヌマーン
残念ながら解散してしまったが、今はバズマザーズとして活動している。

 そのギターボーカル、山田亮一。
彼は天才である。本当に天才なのである。

 どこが天才なのか?
それは彼の作る音楽は「見れば見るほど」染み込んでくる点にある。

 

第一弾として(ツイッターで何回かやっちゃってるけど。)「若者のすべて」という曲を聴いてもらいたい。

歌詞を追いながら、頭の中で想像しながら。聞いてほしい。

 

 

 

青年と走る鉄塊は交差して
赤黒い物体と駅のホーム
復旧を告げる放送を聴きながら
その光景を想って身震いする

延着の紙面を請うて、長い列
零コンマ数秒で片付く命
「ご足労様です」と嘲笑して
青年に俯瞰されてる気がした

それでも明日は何度も
執拗に俺を呼ぶのだ
随分と長い間待たせたそのお詫びに
理想でも土産に持って行こうかい

考えすぎて馬鹿になって
発狂しすぎて普通になって
so that's killed me歌うとは
失望の望を怒鳴ることさ

思い出すのはあの人のこと
ふと、夜空を見上げたら
月の砂塵が目に入って
涙が一筋

お母さんが笑った顔
お姉ちゃんが弾くピアノ
月の砂塵が目に入って
涙が一筋

結局捨てれんかった
恥やら外聞も人間だもんね
しょうがないさ

時間は過ぎてくその現実に
眼球をいつまでそらすつもりか
逢えない誰かを想うとは
失念の念を贈ることさ

心で歌うな喉で歌え
オンボロになって初めて見える価値
so that's killed me歌うのだ
失望の望を怒鳴るのだ ぎぁー!

 いかがだっただろうか?え?歌詞が聞き取りにくい?うるせー山田さんは滑舌が悪いんだ気合いで聞き取れ!
さっそく細かな段落に分けて解説していこう。

 

「青年と走る鉄塊は交差して 赤黒い物体と駅のホーム
 復旧を告げる放送を聴きながら その光景を想って身震いする」

まずは第一段落。しょっぱなで読んで凄さが伝わるだろうか。たった2文でこの歌の導入の情景が一発で分かるように作られている。
飛び込み自殺をした青年。止まった電車。駅構内のアナウンスを聞きながら、現場の光景を想像してぞっとしてしまう。そんな人物が頭の中に浮かんでくる。

まず電車のことを「走る鉄塊」と表現するセンス。そしてそれが一発で電車だとわかる情景の表現。ここだけで個人的にはごはん3杯はイケる。

 「延着の紙面を請うて、長い列 零コンマ数秒で片付く命
 「ご足労様です」と嘲笑して 青年に俯瞰されてる気がした」

運行の再開、もしくは運休の号外が配られ、それを受け取るために長い行列ができている。大幅に遅れたダイヤで、多くの客は予定をすっかり崩されている。おそらくこの歌の主人公も、この行列に並んでいるのだろう。このクソめんどくさい事態を引き起こしたのが、若者が一瞬で投げ捨てた命であるという事に皮肉めいた感情を乗せている。
そんな自分を、その若者が空から嘲笑っている。「お前等、堅苦しい世界に生きているな。お疲れ様。俺は先に抜けさせてもらいました」
この飛び込んだ若者が「ご足労様です」と言っていることから、この若者は主人公より年下であるということが推察される。もしかしたら学生だったのかもしれない。

そのことを頭に踏まえた上でもう一度、イントロを聞いてほしい。

イントロ、学校のチャイムの音に聞こえませんか?

そしてタイトルが「若者のすべて

仮にチャイムの音だとした場合、「この青年の生きる世界の全ては学校にあった」という意味を込めているようにもこのイントロから読み取ることができる。さすがに深読みのしすぎだと言われればそれまでなのだが。

「それでも明日は何度も 執拗に俺を呼ぶのだ
 随分と長い間待たせたそのお詫びに 理想でも土産に持って行こうかい
 考えすぎて馬鹿になって 発狂しすぎて普通になって
 so that's killed me歌うとは 失望の望を怒鳴ることさ」

青年に嘲笑されているように感じている時点で、このお話の主人公は先にこの世界から「死」をもってして抜け出した青年に羨望の感情を抱いている。
なんとなく自分の生きる希望が見つからず、「あーあ。死にたいなー」なんて、漠然とした気持ちで考えにふけった事、みなさんはありませんか?ないとは言わせないぞ。

 ここで、主人公を引き留めるのが「明日」だ。

ココの表現が抜群にウマい。「明日」を擬人化して、執拗に主人公を呼んでいる。
意味は理解できるだろう。どんなに死にたいと思っていても。それでも未来があるということだけで、思いとどまれているんだということ。

しかし、ここで「長い間明日を待たせている」という意味が分からなくなってしまう。別に待たせなくても勝手に明日はやってくるのだから。
つまりここでの「明日」は時間的な意味合いではなく、概念的な意味合いのほうが強いと読み取ることができる。


ここからは私の妄想が多く入っているので信憑性もクソもないのだが、この明日は「モラトリアム」からの脱却という意味での「明日」だと私は考えている。
モラトリアムの言葉自体の意味を確認すると[一人前の人間となる事を猶予されている状態を指す]とwikiにある。

つまり「大人になることを放棄している状態」であるということができる。「大人になりたくないなー」という漠然とした思いは、自分を成長させることを放棄し、ある意味「死んでいる」状態なのではないだろうか。その状態をずっと続けていたいという思いが、モラトリアムであり、思春期である。

その状態を続けていたい。だけど「明日」という未来が自分を呼んでいる。
大人になる覚悟をきめた主人公は「理想」という生きがいを持って大人へと歩み始める。深い。深いぞ山田亮一。

そしてサビ。ここは余計な説明はいらないだろう。
しっかり語尾の韻を合わせることで、聞き心地がよくなっている。
一つ補足しておくと「失望の望」という表現の仕方は、中村一義の「魂の本」という曲でも似たような表現がある。この歌もいいので是非。

絶望や失望の中にも、かならず「望」はあるのだ。

 

「思い出すのはあの人のこと ふと、夜空を見上げたら
月の砂塵が目に入って 涙が一筋
お母さんが笑った顔 お姉ちゃんが弾くピアノ
月の砂塵が目に入って 涙が一筋」

さて、今まで写実的な表現がほとんどだったこの歌、ここから少し抽象的になる。
月の砂塵のいう表現がとても秀逸。月明かりの表現ともとれるし、幼い頃の風景が月明かりから降ってくるように思いだされる事を表現しているともとれる。
いままでリアルなタッチで書いてきた世界観から、ふっとファンタジーっぽい路線に移ることでココだけ幻想的なイメージを抱かせ、泣きのメロディーとも相まってしみる構成になっている。
昔の初恋の人、ケンカ別れしてしまった人、もう戻ってこない人。
自分の思い当たる人を思い出しながら聞くと途端に涙腺に来る。

「結局捨てれんかった恥やら外聞も
 人間だもんねしょうがないさ
 時間は過ぎてくその現実に 眼球をいつまでそらすつもりか
 逢えない誰かを想うとは 失念の念を贈ることさ
 心で歌うな喉で歌え オンボロになって初めて見える価値
 so that's killed me歌うのだ 失望の望を怒鳴るのだ ぎぁー!」

 ハイココ。ここです。ここが一番の聞かせどころです。
「完璧な大人」になりたくて、恥やプライドを全部捨て去りたいと願ったけども、結局人間だからどうしても捨てきれなかった。でも。これを受け入れて生きていくことが「明日を生きる」ということなのだ。
そのことからいつまでも逃げ続けるな。自分の汚い部分をしっかり向き合え。
オンボロになって見える価値が確かにあるんだから。
だからきれいごとで生きるな。ありのままで生きていこうぜ。

 

これは私の独断と偏見の解釈だから共感できなくてもしょうがないと思っている。
しかし、ハヌマーンの歌詞にはこのように何か引っかかるフレーズが所狭しとちりばめられている。

このなかで少しでも響いた言葉があれば、あなたはこのバンド、きっと気に入ると思いますよ。

 

さて、休暇でやることもないし、もう一度聞きあさってみるか。

 

 

嫉妬も劣等も赤く燃やして、奴らの芝生焼け!

タイトルは私がコソコソと書き綴っている黒歴史ノート(作詞作曲ノート)の中の一曲。
カサブタ」のサビ部分である。

こらそこ、ガッシュのパクりじゃんとか言わない。自覚はある。

んで、その後、


ショートしてる回路、消す退路。
見ていろ!さぁ火花散らせ!
カサブタ剥がした僕は一層
昨日の僕より強く光っていきたいよ
意気揚々生きたいよ、愚直に進め!


というふうに
「回路」「退路」「ていろ」
「いきたいよ」「意気揚々」「生きたいよ」
と、怒涛の様に韻を踏みまくる最高に""ROCK""な部分があるのだが
(しかも「意気揚々」の部分は『生きようよ』という呼び掛けの意味も込めたダブルミーニングになっている。天才か俺。)
今回は残念ながら黒歴史の話ではない。
しかもこの歌はこの部分しかできていない。クソ。


「隣の芝生は青い」という諺を御存知であろうか。

なんでも他人のものはよく見えるものだという意味だが、要するに『嫉妬』『羨望』。更に言えば『劣等』の感情は拭いきれないということである。


以前なら絶対にありえないと思っていた女が、いざ誰かと付き合ったという話を聞くと、なんとなく可愛く見えてきて、羨ましく感じてしまう。

自分には全く関係ないのに、TwitterInstagramで楽しそうな写真を友達があげていると、なんとなく自分がつまらない人生を送っている気がしてきてしまう。

なんであの子の周りには人が集まっていて、自分の周りには集まらないんだろう。きっと私が不細工であの子がかわいいからだ。

なんてこと、経験ないだろうか?
少なくとも私はメチャクチャある。
むしろ私の人生の大半はこの感情で占められている。
今現在も。

そしてそんな感情を持ってしまう自分に嫌気が差してしまい、とことん自己嫌悪に陥る。
病んでる人の大半がそういう感情を持っているのではないか(偏見だけども)
しかし、これは決してマイナスの感情ではないと私は思うのだ。

大切なことは、「自分にも優っているところが少なからずあるはずだ」と思うことだ。
その感情を常に念頭においていれば、それらの感情はネガティヴではなく、ポジティブに作用する。
言い換えれば、その感情を持てずにいると、途端に嫉妬や劣等の感情に支配されてしまうということでもある。

「自分を好きになれない奴は、誰からも好かれない」とはよく言ったもので、嫉妬や劣等に支配されてしまうと、途端に見える世界が狭くなってしまう。
視界が狭くなった人間が行き着く思考回路は相場がきまっており、徹底的な自己嫌悪と、誰も自分の気持ちなんかわからない、わかってもらおうとも思わないという捻くれたナルシズムである。

進学校に進んだはいいが、その中で落ちこぼれ、敗北感しか感じなかった高校生の私が、まさにその典型だった。

中学の友人からすれば、私は「進学校に入ったエリート」なのだ。しかし、当時の環境で私は「落ちこぼれのバカ」となる。

閉塞した環境から飛び出して、俯瞰して自分を見つめたら見えるはずの景色が、私には見えなかった。
その時に貴重な友人も自分の身勝手な言動で失ってしまった。彼には未だに謝っても謝りきれない。


私の場合は「劣等」が主な感情を占めていたが、これが「嫉妬」でも同じことだ。
自分にはない他者の能力を嫉み、遠ざけようとする。その時に発生する行動が、「拒否」と「攻撃」だ。
周りとの交流を避けようとする。私の気持ちなんてわからないくせに、と自分で壁を作ってしまう。
そんな人間、だれが仲良くなりたがるだろうか。そのくせ、自分は誰かに認めてほしくて、他との交流を求めようとする。
しかしその交流は、自分に都合のいい発言しか許されない独善的なコミュニケーションだ。
自分に都合のいい言葉だけを聞き入れ、他は全部遮断する。その中に本当に自分の為を思って言ってくれている忠告があったとしても、彼(彼女)はその言葉を受け入れようとしないだろう。

自分の視界が狭まるということは、自分自身の首を絞め、破壊していく行為に等しいのだ。





それを防ぐために必要な感情が、「自分に自信を持つ」ということであると私は考えている。
もっと簡単な言葉にしよう。「今にみてろ!一泡吹かせてやる!」だ。


自分に自信がない人間は、自分より能力があると判断した人間とは関わろうとしないし、競う気も起きない。
「どうせ私はあの子よりダメだし」と自分の可能性まで否定してしまっている。
確かにあなたは、羨んでいるあの子には勝てないかもしれない。努力が無駄になってしまうこともあるかもしれない。
しかし、それだけの話だ。「その分野でかなわない」だけで、他にも張り合えるところは必ず存在するのだ。


どんなくだらないことだっていい、あの子に勝てる何かを見つけろ。それがあなたの長所になる。
そしてこう考えろ。「今にみてろ!絶対あの子に負けないくらい自分は幸せな人間になれるはずだ!」

マイナスな感情を燃やすことで、人は大きなエネルギーを生み出すことができる。それが衝動であり、反骨精神であり、青春であり、ROCKとなるのだ。
しかしマイナスの感情という炭があったとしても、火種がないと燃やすことすらできない。その火種の根本が、「自分を好きになること」なのだ。


嫉妬も劣等も真っ赤に燃やせ。燃やして青く見える奴らの芝生を焼き払ってしまえ。
そうすればきっと、今までより強い自分になれるはずだから。


そういうメッセージを込めた「カサブタ」の歌詞、いい歌詞でしょ?
曲になったらみんな是非聞いてみてね(序盤の歌詞のネタの伏線を最後で回収するとてもセンスのある文章となりました。ええ、単にこの歌詞の良さを自慢したかっただけですハイ)

追いかける「夢」縛られる「夢」

私が大学受験に失敗し、失意の底で入った大学で1番心に残った授業は「哲学」である
別に教授のお世辞にも中立とは言えない偏った思考に同意したわけではない。
ただ、彼の何気なく吐き出した一言が、私の心に強く響いた。


「夢は諦めても構わない」


ありとあらゆる創作物、ドキュメンタリーで中心に置かれるテーマの一つが「夢」だ。
サクセスストーリーからおとぎ話に至るまで、夢を実現させることは素晴らしいことであり人を感動させる力がある。

テレビをつければJPOPが夢を歌い、ドラマが夢を追いかける若者を流している。

 

ただ、私はいつも疑問に思う。

夢を諦めることは、悪いことなのだろうか?

 

例えば私は、バンドマンになりたい。今でもそう思っている。

しかしまともな生活は送りたい。バイト生活なんて真っ平ゴメンだ。

だから私は働きながら、趣味としてバンドを始めている。パソコンで音楽を編集し、動画サイトに投稿しようかなとも思っている。

 

そこそこに収入もあり、音楽も楽しめている。自分がやりたいと思ったことはできている環境にある。

しかし、バンドマンにならなかった私は夢を諦めたのだろうか?不幸なのだろうか?

少なくとも、私は自分を不幸だとは思っていない。

 

多くの人が夢破れて社会に出ている。

そんな人達が羨み憧れているのが「夢追い人」なのだ。一握りの成功者を、人は羨んでしまうのだ。

そんな夢の呪縛に縛られているのではないか?

夢を叶えるために未来の選択肢をそれ一本に絞るというのは、とてもリスキーなことである。

 

夢を持つのは構わない。ただその夢の対象を1つに固定する必要はない。

途中で乗り換えて別な夢を追いかけたっていいのだ。もちろん、夢の追いかけ方を変えたって構わない。

岡村靖幸もこう歌っている。

「寂しくて悲しくて辛いことばかりならば、あきらめて構わない大事なことはそんなんじゃない」

 

夢を追いかけるあまりに辛い思いをするのならば、そんな夢は必要ない。もっと大切なことが他にもあるはずだ。

 

私が夢見た志望校の試験に落ち、失意の底で入った大学は、私にとってかけがえのない4年間だった。

諦めたことで手に入れた幸福が、そこには確かにあったのだ。