徒然サブカル随筆

気の向くままにサブカルについて綴ります

殺意を持って生きるのだ

「殺意」と聞いて皆さんはどんな印象を持つだろうか。
十中八九、物騒なイメージを持つことだろう。
なんてったって「殺す意思」と書くのだ。マイナスなイメージをぬぐい切れないのは当然だろう。

しかし私は、常に殺意を持って生きたいと思っている。
ここでの殺意は「殺す意思」ではない「殺したい意思」だ。あくまでも願望の意味合いが強い。


むかつく上司、不条理な客、理不尽な仕事。世の中には納得のいかない出来事であふれている。
それに従順に従っていては精神が持たない。「殺してやりてぇな」というひねくれた精神が必要なのだ。

学生時代に「まじめだね」とよく言われた。それと同じく「エロそうだね」とも言われているのだが。
とにかく一生懸命先生のいうことを聞いて、ルールを守り、怒られないよう、目をつけられないよう、懸命に生きてきた。
それが「正しいこと」なのだと信じて生きてきた。

しかし、ヤンキーがまじめになると途端に周りから高評価を受けるように。
たとえばそう、明らかなクズ男なのにやけに女にモテたりするように。
そしてそう、遊び歩いていたウェイのくせして、やたら会社でいい立場に立っていたり。

まじめに生きてきた人ほど、残念ながらこの社会では損をする立場になってしまう。
「正しいこと」を必死で貫いてきた人ほど、実際の社会では「役立たず、つまらないやつ」になってしまうのだ。
(半年くらい前にツイッターで回ってきたブログにも似たようなことが書いてあった。感じているのは自分だけじゃないのだろう)


だからと言って不真面目になれなんていうつもりは毛頭ない。凝り固まった社会を変えようなんていう大言壮語も吐くつもりもない。
「殺意」だ。殺意を持つのだ。

不条理を憎め。理不尽を憎め。殺してやりたいと思うほどの怒りを常に胸に秘めていろ。
別に歯向かって戦えとは言わない。しかし、諦めて無気力になってしまった時こそが真の敗北だと私は思う。

毎日同じ仕事の繰り返しになりがちな社会人。ベンチャーならともかく、ある程度の規模の会社になるとわけのわからない慣習や今更と思うようなしきたりがあちこちに散らばっている。
それを「当たり前」だと感じてしまったとき、少なくとも私は大切な何かを失ってしまうような気がする。
私が私であるための意義が、自分という認識が、きっと希薄なものになってしまう。


これからの長い人生の中で、きっとこの文章は大変青臭い。たぶん10年後にもう一回見たら恥ずかしさで悶絶するかもしれない。
それでも、私は殺意を持ち続けたい。ひねくれた気持ちを大切にしたい。ひいては、いつかあきらめかけてしまっている自分を見つけたとき、その自分自身に殺意を抱きたい。


腹が立つ気持ちを持つことは、決して悪いことじゃない。
まじめな人ほど、腹を立てている自分に嫌気がさし、自己嫌悪に陥りやすい。
全部自分のせいにする必要はない。むかつく奴らに堂々と殺意を持て。
そうすれば少しだけ、生きるのが楽になるかもしれない。