徒然サブカル随筆

気の向くままにサブカルについて綴ります

見える風景と言い訳

例えば受験。例えば就活。例えば結婚や出産。人間は様々な人生の分かれ道に出くわす。
その時に、否応なしに。頭ごなしに選択を強いられる。
そう考えると人生は「決断」の連続で構成されているとも言えるのかもしれない。
それでも「この道があっているのだろうか」「あっちのほうがいいんじゃないのか」なんて考える余裕なんて与えられない。
時間は無常にも、不条理にも過ぎ去っていくものである。

ふと、思い出すものがあった。高校生の時だ。
周りの先生やクラスメイトが口を揃えて言っていた。「旧帝大早慶に入れないやつは負け」という言葉。
同調という名の無言の暴力に押しつぶされて、いつの間にか自分も同じ考え方になっている。あの感覚。

さらに思い返すと、大学の時。就活真っ只中。
「あいつは一部上場企業に内定もらったらしいぞ」「あいつは中小だってさ。終わってるよな」
そんななんの根拠もない憶測の会話が飛び交う。パブリックイメージとは恐ろしいものだ。
上場していれば安心だ。定年まで働けるなんて絵空事。今の世の中じゃ通じるわけもないのに、どうしても大人数はそっちに流れてしまう。
もちろん私もその大人数の一人に甘んじてしまっていることは確かである。

その時の周囲の環境で、見える景色は大きく変わってくる。
自分の幸せというものは、実は他者からの評価で築きあげられているということに気づいていない人も多い。

「自分が幸せならそれでいいじゃん」という人はごくわずかで、基本的に人というのは多かれ少なかれ「承認欲求」を持っている。
マズローの欲求説の上から2番目であり、「欠乏欲求」に該当する。一番上は「自己実現欲求」だ。上記したごくわずかな人たちがそれにあたる。
つまりはみんな、何かしら認められたいのだ。その手っ取り早い方法が社会的なステータスを持つということになる。
そしてそれは、現代の社会で生活するうえではなくてならないファクターである。

「お義父さん!お嬢さんを僕に下さい!」なんて臭いセリフを吐くにしろ、その両親が求める条件の筆頭に上がるのは「ちゃんとした仕事に就いているか」である。
「定職にはついていません!でも自分の好きなことをしてます!私は今幸せです!お嬢さんも幸せにします!」なんてことを言って認めてもらえたら驚きだ。
社会的なステータスというものはそのまま「信用」に直結する。例えば住宅ローンやクレジットカードの審査、アパートの契約。すべてがその人の「信用力」で判断される。

つまり、大多数が認める存在になることで、社会で生きていく上で不自由なく過ごすことができるということだ。
金持ちになりたかったり、有名になりたいという気持ちは、根底にこの部分が関係してきている。と私は考えている。


話を戻そう。人生は決断の連続だ。決断するためには、本人の努力であったり、運だったりが大きく関係してくる。
限られた時間の中で下した結論が間違ってしまうこともあるだろう。
その時に後悔して、落ち込んで、生きてることが辛くなる前に、もう少し見方を変えてみようじゃないか。


評価というものは「比較」から成り立っている。自分の今いる場所があいつと比べて上か下かで判断される。
さっきの例で言えば「進学校旧帝大早慶に入れなかったものは人生負け組」「上場企業に入れなかったら人生負け組」
と、こういう認識をその環境にいる人間の大多数が持っているということである。

では果たして本当にそうなのか?

いい大学に入ったはいいものの、遊びまくった結果留年。結果引きこもり状態になってしまう人と、いい大学に入れなくても、努力して会社に入って仕事を頑張っている人では、どちらが幸せだろうか。
大企業に入ったはいいものの、人間関係がうまくいかずストレスで鬱になる、いい給料をもらえているけど、激務過ぎて使う時間すらなく体調を壊してしまう人と、有名な会社ではないが上司や同僚に恵まれ、楽しく仕事できている人では、どちらが幸せだろうか。

極論だと言われればそれまでだが、結局は人生の決断は「運」なのだ。ギャンブルだ。未来がどうなるかなんて誰にも分からないのに、今ある情報だけで今後の人生を判断することがそもそも間違いなのだ。
「でも、その決断に成功した人たちのほうが人生幸せに過ごせる可能性は高い」という意見が出てくるだろう。それは残念ながらその通りだ。
いい大学やいい会社に入ることで、その幸せを享受できる人の母数が増えるのは間違いない。既に社会的に認めらてれいるのだから幸せに暮らせる確率は上がるだろう。


でも、絶対じゃない。ここが重要。


既に決断をして、その結果が出ているものを変えることはできない。過ぎてしまったことをやり直すタイムマシンはまだ完成していない。
その出てしまった結果に一喜一憂して、今後の可能性を追い求める努力をしなくなってしまうことが一番のマイナスだ。
「もうこの大学に行けなかったから俺はもうだめだ」「第一希望の会社に入れなかったから俺の人生は不幸だ」
そう考える人はおそらく幸せにはなれない。幸せになる努力をそこで辞めてしまっているからだ。
逆に「いい大学入ったから俺の人生勝ち組だな」「大企業入ったしこれで安泰だ」なんて考えている人も幸せにはなれない。
今の社会的ステータスを過信しすぎて、努力することを辞めてしまっているからだ。

行動しないことが、人生の決断をするうえで一番不幸になってしまう選択だと私は考える。
マイナスのことばかり考えず、今の自分の立場を客観的に見てみよう。それは環境によってはとても難しいことかもしれない。
下ばかりみて、空の景色を見ることができなくなってしまっているかもしれない。
でも、そこで止まってしまったら確実に負けだ。現状が辛くて苦しいなら、その現状を打破する努力をしなくてはならない。

努力すれば結果が実るわけではない。だけど幸運以外の結果はすべて努力から生まれているのも事実だ。
その努力を行うために、現状の見方を変えることは「言い訳」に見えるかもしれない。今のレベルから下がることもあるかもしれない。
でも「言い訳」でいいじゃないか。それで今の現状を変える努力ができるのなら、ジャンジャン逃げ出すべきだし言い訳もすべきだ。

センター試験が終わり、大学入試がせまるこの時期、来る4月に向けて社会人の準備をしている大学生諸君。
今後辛いことがもしあったなら、この文章を読んだことをちょっとでもいいから思い出してほしい。
逃げても、言い訳してもいいんだということを頭の片隅にでも入れておいてほしい。それは決して負けではない。恥ずかしいことでもない。
それを思い出して、実行に移してもらえたら、この記事を書いた甲斐があるというもんだ。


しばらく更新さぼってたからちょっと濃いめのな内容書いてしまった。
今後はまたちょくちょく下らない内容の記事でも書くつもりなのでよかったら見てくださいね。