嫉妬も劣等も赤く燃やして、奴らの芝生焼け!
タイトルは私がコソコソと書き綴っている黒歴史ノート(作詞作曲ノート)の中の一曲。
「カサブタ」のサビ部分である。
こらそこ、ガッシュのパクりじゃんとか言わない。自覚はある。
んで、その後、
【ショートしてる回路、消す退路。
見ていろ!さぁ火花散らせ!
カサブタ剥がした僕は一層
昨日の僕より強く光っていきたいよ
意気揚々生きたいよ、愚直に進め!】
というふうに
「回路」「退路」「ていろ」
「いきたいよ」「意気揚々」「生きたいよ」
と、怒涛の様に韻を踏みまくる最高に""ROCK""な部分があるのだが
(しかも「意気揚々」の部分は『生きようよ』という呼び掛けの意味も込めたダブルミーニングになっている。天才か俺。)
今回は残念ながら黒歴史の話ではない。
しかもこの歌はこの部分しかできていない。クソ。
「隣の芝生は青い」という諺を御存知であろうか。
なんでも他人のものはよく見えるものだという意味だが、要するに『嫉妬』『羨望』。更に言えば『劣等』の感情は拭いきれないということである。
以前なら絶対にありえないと思っていた女が、いざ誰かと付き合ったという話を聞くと、なんとなく可愛く見えてきて、羨ましく感じてしまう。
自分には全く関係ないのに、TwitterやInstagramで楽しそうな写真を友達があげていると、なんとなく自分がつまらない人生を送っている気がしてきてしまう。
なんであの子の周りには人が集まっていて、自分の周りには集まらないんだろう。きっと私が不細工であの子がかわいいからだ。
なんてこと、経験ないだろうか?
少なくとも私はメチャクチャある。
むしろ私の人生の大半はこの感情で占められている。
今現在も。
そしてそんな感情を持ってしまう自分に嫌気が差してしまい、とことん自己嫌悪に陥る。
病んでる人の大半がそういう感情を持っているのではないか(偏見だけども)
しかし、これは決してマイナスの感情ではないと私は思うのだ。
大切なことは、「自分にも優っているところが少なからずあるはずだ」と思うことだ。
その感情を常に念頭においていれば、それらの感情はネガティヴではなく、ポジティブに作用する。
言い換えれば、その感情を持てずにいると、途端に嫉妬や劣等の感情に支配されてしまうということでもある。
「自分を好きになれない奴は、誰からも好かれない」とはよく言ったもので、嫉妬や劣等に支配されてしまうと、途端に見える世界が狭くなってしまう。
視界が狭くなった人間が行き着く思考回路は相場がきまっており、徹底的な自己嫌悪と、誰も自分の気持ちなんかわからない、わかってもらおうとも思わないという捻くれたナルシズムである。
進学校に進んだはいいが、その中で落ちこぼれ、敗北感しか感じなかった高校生の私が、まさにその典型だった。
中学の友人からすれば、私は「進学校に入ったエリート」なのだ。しかし、当時の環境で私は「落ちこぼれのバカ」となる。
閉塞した環境から飛び出して、俯瞰して自分を見つめたら見えるはずの景色が、私には見えなかった。
その時に貴重な友人も自分の身勝手な言動で失ってしまった。彼には未だに謝っても謝りきれない。
私の場合は「劣等」が主な感情を占めていたが、これが「嫉妬」でも同じことだ。
自分にはない他者の能力を嫉み、遠ざけようとする。その時に発生する行動が、「拒否」と「攻撃」だ。
周りとの交流を避けようとする。私の気持ちなんてわからないくせに、と自分で壁を作ってしまう。
そんな人間、だれが仲良くなりたがるだろうか。そのくせ、自分は誰かに認めてほしくて、他との交流を求めようとする。
しかしその交流は、自分に都合のいい発言しか許されない独善的なコミュニケーションだ。
自分に都合のいい言葉だけを聞き入れ、他は全部遮断する。その中に本当に自分の為を思って言ってくれている忠告があったとしても、彼(彼女)はその言葉を受け入れようとしないだろう。
自分の視界が狭まるということは、自分自身の首を絞め、破壊していく行為に等しいのだ。
それを防ぐために必要な感情が、「自分に自信を持つ」ということであると私は考えている。
もっと簡単な言葉にしよう。「今にみてろ!一泡吹かせてやる!」だ。
自分に自信がない人間は、自分より能力があると判断した人間とは関わろうとしないし、競う気も起きない。
「どうせ私はあの子よりダメだし」と自分の可能性まで否定してしまっている。
確かにあなたは、羨んでいるあの子には勝てないかもしれない。努力が無駄になってしまうこともあるかもしれない。
しかし、それだけの話だ。「その分野でかなわない」だけで、他にも張り合えるところは必ず存在するのだ。
どんなくだらないことだっていい、あの子に勝てる何かを見つけろ。それがあなたの長所になる。
そしてこう考えろ。「今にみてろ!絶対あの子に負けないくらい自分は幸せな人間になれるはずだ!」
マイナスな感情を燃やすことで、人は大きなエネルギーを生み出すことができる。それが衝動であり、反骨精神であり、青春であり、ROCKとなるのだ。
しかしマイナスの感情という炭があったとしても、火種がないと燃やすことすらできない。その火種の根本が、「自分を好きになること」なのだ。
嫉妬も劣等も真っ赤に燃やせ。燃やして青く見える奴らの芝生を焼き払ってしまえ。
そうすればきっと、今までより強い自分になれるはずだから。
そういうメッセージを込めた「カサブタ」の歌詞、いい歌詞でしょ?
曲になったらみんな是非聞いてみてね(序盤の歌詞のネタの伏線を最後で回収するとてもセンスのある文章となりました。ええ、単にこの歌詞の良さを自慢したかっただけですハイ)
追いかける「夢」縛られる「夢」
私が大学受験に失敗し、失意の底で入った大学で1番心に残った授業は「哲学」である
別に教授のお世辞にも中立とは言えない偏った思考に同意したわけではない。
ただ、彼の何気なく吐き出した一言が、私の心に強く響いた。
「夢は諦めても構わない」
ありとあらゆる創作物、ドキュメンタリーで中心に置かれるテーマの一つが「夢」だ。
サクセスストーリーからおとぎ話に至るまで、夢を実現させることは素晴らしいことであり人を感動させる力がある。
テレビをつければJPOPが夢を歌い、ドラマが夢を追いかける若者を流している。
ただ、私はいつも疑問に思う。
夢を諦めることは、悪いことなのだろうか?
例えば私は、バンドマンになりたい。今でもそう思っている。
しかしまともな生活は送りたい。バイト生活なんて真っ平ゴメンだ。
だから私は働きながら、趣味としてバンドを始めている。パソコンで音楽を編集し、動画サイトに投稿しようかなとも思っている。
そこそこに収入もあり、音楽も楽しめている。自分がやりたいと思ったことはできている環境にある。
しかし、バンドマンにならなかった私は夢を諦めたのだろうか?不幸なのだろうか?
少なくとも、私は自分を不幸だとは思っていない。
多くの人が夢破れて社会に出ている。
そんな人達が羨み憧れているのが「夢追い人」なのだ。一握りの成功者を、人は羨んでしまうのだ。
そんな夢の呪縛に縛られているのではないか?
夢を叶えるために未来の選択肢をそれ一本に絞るというのは、とてもリスキーなことである。
夢を持つのは構わない。ただその夢の対象を1つに固定する必要はない。
途中で乗り換えて別な夢を追いかけたっていいのだ。もちろん、夢の追いかけ方を変えたって構わない。
岡村靖幸もこう歌っている。
「寂しくて悲しくて辛いことばかりならば、あきらめて構わない大事なことはそんなんじゃない」
夢を追いかけるあまりに辛い思いをするのならば、そんな夢は必要ない。もっと大切なことが他にもあるはずだ。
私が夢見た志望校の試験に落ち、失意の底で入った大学は、私にとってかけがえのない4年間だった。
諦めたことで手に入れた幸福が、そこには確かにあったのだ。