徒然サブカル随筆

気の向くままにサブカルについて綴ります

思い出補正もあるけれど2

前回はポプテピピックの感想までだった。
(内容が予想以上のどストライクだったので話が若干気持ち悪くなってしまったのはお詫びします。)

ただ、ここからさらに気持ち悪くなるぞ。覚悟して読めよ。


さぁ、「カードキャプターさくらクリアカード編」の話に移ろう。

多くの大きなお友達を生み出した90年代アニメの怪物。いや、怪獣。
まだ「オタク」や「萌え」という概念すら浸透していなかったあの時代に「NL」「BL」「ショタ」「百合」「ケモナー」「ロリ」「魔法少女」と、ありとあらゆる現在のジャンルをブチ込みまくる。

しかも天下のNHK。潤沢な予算をこれでもかとつぎ込んだ作画のクオリティ。ストーリーはCLAMP(全盛期)。そこに乗っかる菅野よう子の素晴らしい楽曲。「プラチナ」のコード進行については僕ものすごく語れるのでここでは触れないでおくけども。

2chではさくら関連のスレが立ち過ぎた結果、専用板として「CCさくら板」までもが作られる始末。


…とまぁこれでもかとばかりにいろいろな要素を詰め込みまくった作品であり、90年代アニメを語るには外すことはできないだろう。正直そんなに内容詳しくないけど。
ちょっと調べればいくらでも出てくるしねこの辺りのエピソードは。


個人的には、本当に小さい時(小学校低学年だと思う)に、NHK教育.BSを食い入るように見ていたあの時に。強烈に印象に残ったアニメだったというのだけは間違いない。さくらちゃんかわいかったし。ケロちゃんの声好きだったし。ハッチポッチステーションおじゃる丸フルハウス忍たま乱太郎天才テレビくん、ビットランド…あの時のNHKは最高だった…

脱線しかけたので話を元に戻そう。
高校生になり、アニメにハマって色々掘り返して行くうちに、「そういえば俺カードキャプターさくらめっちゃ見てたな」と過去と現在の自分がリンクした気がした。
音楽に興味を持ち始めたところから菅野よう子を知り、それが「プラチナ」を作っていた。自分が小さい頃に好きだったあの歌が、やっぱり名曲としてきちんと評価されていた。

「自分がいいと思っていたものがきちんと評価されていた」ということが、ものすごく快感だった。
俺は間違ってなかったんだ!的なね。


それが。新作で、しかもリメイクでなく。ストーリーから何から完全新作で。キャストも全く同じで。演技も変わらず。レリーズの部分なんかやばいよね(声優になりてぇ)
泣くに決まってるじゃないですかこんなん。

唯一ちょっと心配してたのがOPだったけれど、坂本真綾は続投。菅野よう子さんじゃなかったのは残念だけど、その分水野さんがすごくいい仕事をしてくれた。ちゃんと「それっぽさ」を出しつつ、いきものがかりのいいところのエッセンスもしっかり入れている。

なによりもあのOPのアニメーション。プラチナからの続きだろと言わんばかりの演出。最高。本当に最高。
作画も従来の絵柄を踏襲しつつ、パステル基調の配色で今っぽい絵柄にしっかりとアレンジされている。
ポプテピピックインパクトにかすみがちではあるが、これも十分覇権を取れる作品になるだろう。

先日、大学時代からの後輩と飲んだ時にちょうどカードキャプターの話になった。
「1話見て懐かしいなとは思ったんですけど、今見ると恥ずかしくてちゃんと見れないんです」
おそらく、幼少期にこのアニメを見ていた人はほとんど同じ感想になると思う。実際私もそうだ。

いくらいろんな要素を詰め込んでいるとはいえ、基本的には子供向けに作られた作品であることは間違いない。
当時はなんの違和感もなく見ていた我々も、今さくらちゃんと小狼君のイチャつきっぷり、青くささを見ると、正直小っ恥ずかしくてやってられないと言うのが正直な感想だろう。(なーにが数学とお友達になるの!だよそんな中学生いねーよイタいイタいイタい!と、こんな私でさえも正直思った)

これは「成長」だ。大きくなった私達は、いろいろなことを経験してきた。当時に比べて本当にいろんな事があっただろうし、それなりに恋だの愛だの経験してきている。

ある意味で汚れてしまった(あえてこの言い方を言うけど)私達には、彼女らの甘酸っぱさに耐えきれないのだ。
そんなにうまくいくはずがないことを知ってしまったから。

それでも、その甘酸っぱさを噛み締めて見てほしい。
時折感じる切なさを。ノスタルジーを。あの時の自分に重ねて見てほしい。
大人になった僕達が、大人になろうとしている物語を、大人になる前と後で見比べる事ができる。こんな体験はなかなか出来ない。と、私は思う。

魔法なんかあるわけない。世界なんか救えない。
運命はいいことばかりじゃないし意中の人と両想いになんてなかなかなれない。
当たり前のことだけど、それでもあの時の僕達は、彼(彼女)に憧れ、自分もいつかそんな体験をしたいと思っていただろう。

その時の気持ちを、忘れかけていたあの気持ちを、なんとなく思い出させてくれる。
そんな素晴らしいアニメだなと、私は思っている。





それっぽいこと言ったけど僕は小狼君になりたいし、さくらちゃんと一緒にお弁当食べたい(真顔)
なんで僕はカードキャプターじゃないんだよ!こんな世界おかしいよ!!!!いい加減にしろ!!!!!!!!!世界滅びろ!!!!!!!!

思い出補正もあるけれど

濃い内容のブログをブチかまそうかと思っていたが、その前にどうしてもまとめておきたい事があったのでまずはそちらを新年1発目としたい。

もともと、僕はそんなにアニメを見る方ではない。
ただ、気に入ったもの(アニメだけじゃないけど)をびっくりするくらい繰り返し見続ける悪癖があるので、気に入ったものに関してはとことん詳しくなる。水曜どうでしょうしかり。ラーメンズしかり。アニメで言えばらき☆すたハルヒあたりはもう引くほど繰り返し見た。高校の時。

幼少期からその悪癖は健在であり、「となりのトトロ」に関してはセリフ全部覚えて1人で味噌汁と白飯をかっ込み、

父「もう友達ができたのか」
メイ「さーつきちゃーんだって!」
さつき「うん!みっちゃんって言うの!」

メシをかっ込む

さつき「行って来まーす」
父、メイ「「いってらっしゃーい」」

と言って玄関をバタバタと出て行く1人トトロごっこをやっていた。もちろん家族には白い目で見られていたことは言うまでもない。


幼少期の痛い話はさておいて、元来アニメを自分から掘ることをあまりしない私は、社会人になってから忙しさも相まって全くアニメを見ない生活を送っていた。サブカルおじさんとしてあるまじき行為である。

ただ、今期に関しては話は別だった。

ポプテピピック」そして、
カードキャプターさくらクリアカード編」

後者の話は後でするが、「ポプテピピック」は前々から原作を読んでとても気に入っていた作品だったので、アニメになるのを楽しみ半分怖さ半分で待っていた。

だって…ねぇ…?あのクソ4コマ。アニメにするの無理があるじゃんねぇ…?ストーリーに繋がりもクソも何もないしねぇ…?

結論から言えば杞憂だった。いや、想像以上のとんでもないものを見せられてしまった。

あの手のアニメは、ギャグマンガ日和よろしく、FRASHアニメくらいのクオリティで畳み掛けるようなアフレコをするしかおもしろくする方法がないと思っていたが、それを見事に裏切ってくれた。それ以上のクソを提供してくれた。

恐ろしく好みが分かれる作品だろうことは言うまでもない。
色んなところからパクリにパクリまくったネタがわかる人、声優にある程度詳しく、声だけで誰かわかる(他作品でやってる役がわかる)人にはどストライクだろうが、それ以外の人は理解できないところも多いだろう。

ターゲティングのどストライクゾーンが、
「サブカルクソ野郎」「サブカルクソ女」
に設定されているのだ。

それがどういうことかわかるだろうか?


そう、僕にどストライクだったのである。


無駄に豪華すぎる声優のキャスティング、1話30分という概念を覆す15分×2回。しかも内容同じで声だけキャスト変えて撮りなおしてる。
そして、全部わかるかと言わんばかりなパロディの連打。

アニメなのにガーディアンズオブギャラクシーのパロ出して来たのには驚いた。本当に多方面把握してないと全部のパロはわかんないと思う。

銀魂や、勇者ヨシヒコが好きなら間違いなく気にいるだろう。パロディの元ネタを調べ始めたら、ようこそサブカルパークへ。君もこっち側の仲間入りだ。

長くなったのでカードキャプターさくら編はまた次回。
新年から別な意味で濃い内容になってしまった。

モンハンがやばい

モンハンがやばい。
PS4勢は全員買ったほうがいいと思う。

グラフィックもさることながらマップ全てがシームレスになってるのやばい

スラッシュアックスかっこよすぎ。属性解放攻撃の華やかさ半端ない

難易度おそらく高め。ボルボトス倒すのに3回くらい失敗した(友達と2人プレイでもダメだった)

後半友人と僕の語彙が擬音しかなくなった

このために液晶モニタと本格的なボイチャ買うレベル

ただこれ友達いないとかなり寂しい

だからみんなPS4を買ってモンハンを買うんだ。

来年にはエースコンバットも出るぞ。サイコーにカッコいい飛行機ごっこができるぞ

モンハンやばい。みんな買おう

微睡みと過呼吸

私には昔から見る夢、というか、微睡む時に考えることがある。

「自分が死んだらどうなるのだろう」
という永遠に答えが出ないテーマである。

この問題を考えてしまうと胸が締め付けられるようになって若干の呼吸困難になり、過呼吸っぽい症状になってしまうのでタチが悪い。というか今久々になったのでこれを書いている。


生きている以上、必ず死は訪れる。
ただ、無神論者である私は、天国や地獄があるなんて理想は全く持ち合わせておらず、この自己意識がどこに行くのかということばかり考えていた。

この思考を考えているのは誰だ。それは僕だ。
死んだらどうなる?意識がなくなる。
眠りにつく時には意識がない。では死は、例えにもあげられるように、永遠の眠りにつくようなものなのだろう。

そうなると、眠りにつくことが怖くて仕方がなくなる。
僕たちは毎日、死を擬似的に経験しているのではないだろうか。

そんなことを考えているこの僕の意識も、無として消えてしまうのだろうか。
ブレーカーが落ちるように、突然と意識が落ちてなくなるのだろうか。


わかってくれる人がいるかどうかはわからないが、この自意識の消滅の部分が私には恐ろしくてたまらない。
本当に怖いのだ。背筋に寒気が走り、その思考をしていること自体が恐ろしくなってくる。

しかもこの問題、最初にも言ったが答えは死んでみないとわからない。だが、いざ死を迎えた時にそれを実感できる意識はおそらくない。

それが怖くて怖くて堪らないから、私はなにかを残したい。伝えたいのかなと思ったりもしている。
自分が存在していたという事実を誰かに知ってて欲しいのかもしれない。


書いてるうちに落ち着いてはきたが、まだ胸の締め付けは収まらない。
多分今日も、僕は眠れないのだろう。まぁ、いつのまにか寝るんだけどね。

イタくても進んでく

唐突だが、私はいわゆる「イタい」人間だと思う。
こんなブログにこんな記事をあげてる時点でお察しではあるが、少なくとも私は自分がイタいことを自覚している。

自覚している上で自らを晒す行為を繰り返している訳だから、おそらく私は相当なドMか、露出プレイが好きな変態かといったところなのだろう。

このブログも2ヶ月ほど更新が滞っていたのだが、こうしてまたキーボードを打ち込んで醜態を晒しているのは、ある漫画の影響が大きい。



左ききのエレン」というweb漫画を知っているだろうか。絵は決して上手くはない。むしろ下手すぎる部類に入るが、恐ろしく内容が深い。そしてアツい。
今、ジャンプ+で新たな作画の連載がスタートしているので、興味がある人は見てみるといいだろう。

その中で主人公の1人が言うセリフにこんなやりとりがある。

「俺は…何かになるんだ…」

「ハッ 何かって何だよ‼︎?」

「何かだよ‼︎俺は何かになりたいんだよ‼︎」

「だから何なんだよそれは‼︎」

「何か…!何かにならなきゃ…退屈で…退屈で生きていけねぇよ…」




久しぶりに、ぐさりと、刺さった。
そうだ。俺も、「何か」になりたかったんだ。



今の現状に特に不満はない。買いたいものも買えてるし、好きなこともできている。友人も少なからずいる。
しかし、何か足りない。どこか乾いている自分がいることも確かだ。


臆病な自尊心と尊大な羞恥心に塗れている虎のような今の自分では、「何か」になる土俵にすら上がれていないのではないだろうか。
この考えは以前から漠然と持っている考えだったのだが、今回この漫画を読んで再び燻っていた心に火がついた。


【天才になれなかった全ての人へーー】
というメッセージから始まるこの下手くそな漫画に、私はすっかり魅了されてしまった。


私も、天才になれなかった。
自分は何か特別なものになれるはずだという漠然とした思いだけが募っていくだけの青春時代だった。
結局、評価されることに怯え、影で指を刺されることに怯え、自分を曝け出して何かを表現するということをしてこなかった。

自分に才能がないと認めることが、途方もなく恐ろしかった。

だけど、あえてやろう。傷ついてもいいから、あがいてやろう。
イタいのは百も承知。才能がないのもわかってる。
ただこの渇きを、この退屈を、少しでも紛らわす可能性があるのならば、私はそこに賭けてみたいと思ったのだ。


これを読んで「イタいわこの人」と思うならばそれで構わない。そのつもりで書いているし、そう思えるということは現状上手くやれている証拠だろう。

しかし、どこかこの文章を読んで引っかかる人がいると私は信じている。自分の中にも退屈や渇きを抱え込んでる人がいることを願ってやまない。

そんな人は、とりあえずやってみようぜ。
イタくても、下手くそでも構わない。
動き出さないと、何かにすらなれないんだから。

モラトリアム

10年越しの蛍光灯の下
多角の木棒、黒ずむ長方
向かう気力も枯れ果てた僕は
壁の時計に焦りばかり感じる

奴等は全て高尚な虚像
同情の台詞も皮肉な幻聴
理性上回る劣等感情を
躍起に保つだけの日常

喚き散らして、寂しくなって
愛を求めて、また喚いて
結局僕らはそういうモンだろう
バツ悪そうに笑うだけだろう


努力の周期は徒労で終了
圧し折る木棒、千切れる長方
利己心ばかり沸き上がる僕は
ただの善意が僕の胸ばかりを刺す

周囲の視線は遙か上方
それを見上げるは羨望の表情
比較対象は誇張だらけの
独りよがりの浅慮な実像

比べて泣いて、言葉も散って
自我を誇示して、人を見下して
結局僕らはそういうモンだろう
気づいた時だけ嘆くだけだろう

「またやってしまった」後悔するフリ
そんな自分にただ酔っているだけ
「死んでしまいたい」出来もしないくせに
叶うはずのない妄想(ゆめ)ばかり想う

怒鳴り散らして、人に当たって
悲しくなって、誰もいなくて
誰か探して、僕を探して
知りもしないまま、ただ喚いてるだけ




その昔、私がマジで病んでた頃に書いた歌詞(メロディーもあるけどまだ誰にも聞かせてないから今のところただのポエム)でございます。

録音でき次第ちゃんと形にする予定だけども、受験で辛かった経験がある人なら痛いほど伝わってくれるんじゃないかと信じておりやす

というわけで、こっそりここに載せときます

殺意を持って生きるのだ

「殺意」と聞いて皆さんはどんな印象を持つだろうか。
十中八九、物騒なイメージを持つことだろう。
なんてったって「殺す意思」と書くのだ。マイナスなイメージをぬぐい切れないのは当然だろう。

しかし私は、常に殺意を持って生きたいと思っている。
ここでの殺意は「殺す意思」ではない「殺したい意思」だ。あくまでも願望の意味合いが強い。


むかつく上司、不条理な客、理不尽な仕事。世の中には納得のいかない出来事であふれている。
それに従順に従っていては精神が持たない。「殺してやりてぇな」というひねくれた精神が必要なのだ。

学生時代に「まじめだね」とよく言われた。それと同じく「エロそうだね」とも言われているのだが。
とにかく一生懸命先生のいうことを聞いて、ルールを守り、怒られないよう、目をつけられないよう、懸命に生きてきた。
それが「正しいこと」なのだと信じて生きてきた。

しかし、ヤンキーがまじめになると途端に周りから高評価を受けるように。
たとえばそう、明らかなクズ男なのにやけに女にモテたりするように。
そしてそう、遊び歩いていたウェイのくせして、やたら会社でいい立場に立っていたり。

まじめに生きてきた人ほど、残念ながらこの社会では損をする立場になってしまう。
「正しいこと」を必死で貫いてきた人ほど、実際の社会では「役立たず、つまらないやつ」になってしまうのだ。
(半年くらい前にツイッターで回ってきたブログにも似たようなことが書いてあった。感じているのは自分だけじゃないのだろう)


だからと言って不真面目になれなんていうつもりは毛頭ない。凝り固まった社会を変えようなんていう大言壮語も吐くつもりもない。
「殺意」だ。殺意を持つのだ。

不条理を憎め。理不尽を憎め。殺してやりたいと思うほどの怒りを常に胸に秘めていろ。
別に歯向かって戦えとは言わない。しかし、諦めて無気力になってしまった時こそが真の敗北だと私は思う。

毎日同じ仕事の繰り返しになりがちな社会人。ベンチャーならともかく、ある程度の規模の会社になるとわけのわからない慣習や今更と思うようなしきたりがあちこちに散らばっている。
それを「当たり前」だと感じてしまったとき、少なくとも私は大切な何かを失ってしまうような気がする。
私が私であるための意義が、自分という認識が、きっと希薄なものになってしまう。


これからの長い人生の中で、きっとこの文章は大変青臭い。たぶん10年後にもう一回見たら恥ずかしさで悶絶するかもしれない。
それでも、私は殺意を持ち続けたい。ひねくれた気持ちを大切にしたい。ひいては、いつかあきらめかけてしまっている自分を見つけたとき、その自分自身に殺意を抱きたい。


腹が立つ気持ちを持つことは、決して悪いことじゃない。
まじめな人ほど、腹を立てている自分に嫌気がさし、自己嫌悪に陥りやすい。
全部自分のせいにする必要はない。むかつく奴らに堂々と殺意を持て。
そうすれば少しだけ、生きるのが楽になるかもしれない。